12月第1例会ゲストスピーチ

  • 黒田官兵衛は黒田庄町黒田村出自説の根拠

系図の違い ●当山系図・・・書かれたのは文化6年巳年(1809年?)   赤松円光──(初代城主)重光──(二代目)重勝──(三代目)重康─                ──(四代目)光勝──(五代目)重貞──(六代目)重昭──(七代目)重範             ──(八代目)重隆┬─(九代目)治隆                                                              └ 孝隆(よしたか)(官兵衛)

●筑前系図・・・近江の佐々木流黒田氏が官兵衛の先祖とする説   佐々木秀義──[四代]──黒田宗清──高満──宗信──高教──高宗─           ──高政──重隆──職(もと)隆(たか)──孝高(官兵衛)                                  ※この系図の元は「江源武鑑」(近江佐々木流六角氏関係の歴史書)や「寛永諸家系図伝」(堀杏庵という尾張徳川家の儒官が記した系図)を元にしている。当時の近江の学者・寒川辰清が信用できないと批判していたが、再度、貝原益軒が復活させたもの。近江の関係者のフィクションが含まれているといわれている。

当山の記述と姫路の古史の記事が一致する 姫路の古文書にも「官兵衛は多可郡黒田村の産なり」とある  姫路の「心光寺旧記」や「国府寺家旧記」にもはっきりと「多可郡黒田村の産なり」とある。心光寺は小寺家菩提寺として御着にあった寺院で、池田輝政の時代に姫路坂田町へ移転(今の姫路の保健所当たりにあった寺院)、今は姫路市北平野台町にある。国府寺家は今のヤマトヤシキ当たりにあった旧家デ、先祖が官兵衛の本性「黒田」の名字をもらっていた。これらの旧記は「播磨古事」という古文書に記されていたもので、嘗ての黒田藩の家来の井手家に伝わっていた書物である。平成18年に井手家から福岡市博物館え寄贈されてもの。「官兵衛は小寺職隆の猶子(ゆうし)(養子)となる。」との記述もある。また、、「播磨古事」(宝暦12年‐1762)にも「黒田官兵衛多可郡黒田村ノ産ト云」とあり、昔から「播磨の黒田出自説」はあったが、裏付ける資料が乏しかった。  ※筑前系図にある「重隆──職(もと)隆(たか)──孝高(官兵衛)」の部分は、貝原益軒の記した    「黒田家譜」や「黒田系譜」によるもので、元は「江源武鑑」の中で捏造されたも  の。また、重隆の父とされる高政は「江源武鑑」の説を引用していて、重隆は備前  の生まれとなっている。司馬遼太郎の「播磨灘物語」などの影響もあり、貝原益軒  の説が通説となっていた。

何故赤松家の流れの人物が黒田城主となったのか?  黒田庄は播磨国と丹波国の国境の地で、加古川から円山川を経由する物流の要衝の地であった。 黒田城の本郭があった天狗山からは、北の丹波国を広範囲に見渡せる。当時の物流の主役は船で、日本海側への運搬は黒田庄を通らなければ行けなかった。この時代は年貢による収益より物流の要衝を押さえての収益を重要視していた。  初代城主が着任した観応二年(1351年)3月は、足利尊氏(北朝方)が弟の足利直(ただ)義(よし)に謀反を起こされ光明寺合戦をしている最中となる。

 

 

荘 厳 寺 案 内

 

 

当山は白雉(650~654)年中、天竺(インド)の僧の法道仙人の開基された観音霊場です。ご本尊の十一面観世音菩薩は、仙人のご自作で、霊験新たなりと伝承され、脇壇には昔から仙人の立像が安置されています。年流れ星霜を経て、これを立証する資料は全くありません。伝記によると、仙人はインドから紫雲に乗って、中国朝鮮を経て日本に渡来し、法華山一乗寺をはじめ播磨の山々に霊場を開創されたようです。常に法華経を読み、各地を巡錫(じゅんしゃく)して、秘密神呪の修法によって民衆を教化されたとあります。  年降りて慶長(1596~1614)の頃、徳禅上人(元和9年12月5日寂)は古跡をたずねて当山に入り、堂宇を修理して「荘林山荘厳寺」を再興されました。それ以後徳禅上人を中興開山として、高野山龍光院(弘法大師のご住房)を大本寺、多可町中区西安田の円満寺を中本寺として、秘密真言の法幢を四方に輝かしたようです。この時から黒田、田高、船町、小苗の四ヶ村の寺檀関係が確立し、その護持によって寺門は益々隆昌に向かいました。また、姫路城主本多氏の帰依により仏具料の寄進を受け、盛時には寺内五十二町歩を寺領としていました。慶安(1648~1652)年間に梵鐘を鋳造し、正徳(1711~1716)年間には多宝塔を再建しています。現在本堂への参道に沿っ僧坊の跡が残っていますが、文献に残っている僧坊名としては西之坊・北之坊・岩本坊・実相坊・南之坊・一乗坊・長円坊・阿弥陀坊・成就坊・中蔵坊があります。また、塔頭として法音院・蓮花院・宝樹院などがありました。現存する持仏堂・庫裡は法音院です。  本尊の「十一面観世音菩薩」は地蔵菩薩と共に諸仏諸菩薩の中で、大衆的に最も古くから親しまれ、最も広く信仰されている菩薩です。「観世音」という名称は、この仏様が世間の人々の苦悩の声を聞いて、即時に苦悩を解消してくださる慈悲のあるということで、「観世音」または「観自在」と申します。「菩薩」とは上求菩薩、下化衆生と言って、常に自己の修養に努力すると同時に、世のため人のために奉仕する仏道修行者のことです。観音様と言いますと、一般には「観音経(法華経普門品)」が引き合いに出されます。このお経には観音様が救いを求める衆生に応じて三十三種の身に変化して、自在に救済するとされています。  「多宝塔」は本堂の右手の小川を渡ったところにあり、正徳五年(1715)に建立されたものです。「多宝塔」とは、釈迦・多宝の二仏が並座する塔のことで、一般的には二重の構造をもった宝塔の形をしています。本尊としては釈迦如来坐像が安置されています。平成12年に兵庫県の重要文化財に指定されました。   「鐘楼」は本堂石段下にあります。姫路城主本多政勝氏から慶安2年(1649)に寄進されたものです。この鐘楼も大晦日の『除夜の鐘』として、村の人を交えて撞かれています。  「八幡宮」は多宝塔石段下にあります。古来、弓矢の神、軍神とされ、『鎮守様』として、中世以降の神仏習合の流れの中で祭られたもので、宝永5年(1708)に建立されています。   「苔むした参道」を取り巻く杉木立の一帯は、自然環境保護地域として、昭和四九年「兵庫県環境保全地域」に指定されています。